3.11 故郷・宮城県女川町を地震と大津波が襲った(東日本大震災)
2011.4.24(2011.3.23 の故郷・女川)
大津波から10日ほど過ぎた数日間、故郷・宮城県女川町にいました。(2011.3.23〜) それから一か月が過ぎ、やっとブログにアップする気になりました。(2011.4.24up) 写真と地図、リンク映像でまとめています。(2011.5.10 更新)
これからも女川を温かく応援していただけるとうれしいです。
写真1
左上の建物は丘の中腹に立つ女川町立病院。この一階まで津波は襲った。茶色のビル「マリンパル女川」のすぐ向こうに女川湾が広がる
3月23日に山形空港経由で女川入りし、数日故郷で過ごした。
女川の惨状はテレビで見るよりはるかに酷いもので、あまりにも知っている町と違いすぎ、町中を歩き回ってもピンと来ない。実家は土台だけで何も立ち上がっていない。倒れた電柱や道路の一部、他の家々の破壊された残骸などが覆いかぶさる。でも道路と土台をたよりに、玄関、部屋の間取り、テラス、倉庫のコンクリートの床、氏神さまの左右に植わっていた青木の枯れた姿などから、かつての実家の姿が簡単に想像できる。茶の間だったところに立って目を上げたとき、300メートル先に見えないはずの海が見えた。穏やかな海だった。この不思議な景色を見た瞬間、これまで出なかった涙が後から後から湧いてきて何も見えなくなった。
自衛隊の手で瓦礫が急ピッチで片付けられ、町全体が廃墟から更地になりつつある。でも今後どうなるのか…。宮城県は10年の復興計画を発表したが…あの姿を前には何も考えられないというのが本音。今後の街づくりは大きく変わらざるを得ないだろう。住まいは高台、商店や工場は低地などという住み分けが理想だろうが、それでなくても土地がない三陸海岸でそのような街づくりがはたしてできるのか。だが、明治から今回までのたった115年間に大きな津波に4度も襲われている事実を考えればもうこれを実現させるしかないだろう。
明治三陸(1896)では今回と同じような大きな被害があったはずだが、みんなそこまでは遡って考えられなかった。50年前に私が体験したチリ地震津波(1960)では1階の鴨居までの比較的緩やかな浸水だったので家は残った。女川駅の階段や南三陸町などには津波がココまで来たという看板が立っていて、それが何気ない風景の一部になってしまっていた。この被害の少なかったチリ地震津波を参考にすべきではなかった。このときの経験が安易に「2階に上がればいい」と安心させ、多くの人たちの命が奪われたのではないかと思う。実家は昔から平屋なので地震が来たらすぐ避難する徹底ぶりだった。
でも今回の揺れの強さから想像すると母はたまたま外出していたから助かったのだと思う。避難した高台の女川町立病院に、隣に住む若い人が足を波にすくわれながらびしょ濡れでなんとか逃げ上がってきたそうだ。足が地面につかなかったという。その話に母は、自宅にいたら私はダメだったろうと。津波は深夜過ぎまで何度も押し寄せ、いつもと同じ静けさを取り戻したのは翌日の日の出を迎えた頃だったという。それにしてもこの地震津波の発生が夜だったら犠牲者の数はさらに増えたと思う。
物資も朝と夕に届けられ食事も安定している。母は避難所に救援物資が入らない最初がとてもつらかったと振り返る。雪が降り寒く食べる物がほとんどない状況下で、持ち寄った僅かな食糧をみんなで分け合い、ピンポン球の半分程の小さいおにぎりや小さな容器に受けた僅かなおかゆを人差し指で口に注ぎ込んだぐらいだったという。
数年前、母たちはご詠歌仲間の4人で四国の八十八カ所参りをしたが、その時の2人を失った。今の緊張感が切れたときの母の落ち込みを考えるととても心が痛い。やはり仲間やご近所とともにあることが内側のものを修復するために何より必要。長くかかりそうだが仲間や家族がお互いを支えていればなんとかなると思う。強くそう思う。女川にいる間に、私も同級生を複数亡くしたことを知り遣り切れない気持ちだ。
こちらに戻る際、母はわたしの手をしっかり握り「わたしは幸せだあ」と涙した。
↓以下のすべての写真はクリックで拡大します
写真2 海側から見た木村家の玄関
↑地図をクリックで拡大します
写真3
熊野神社から女川町を眼下に(2009.1.1撮影)…こんな町だったのに… 左下は標高16メートルの敷地に立つ女川病院。この敷地や1階でも多くの命が失われた
映像4 中央茶色のマリンパル女川の屋上に避難した人の映像→YOMIURI ONLINE
映像5 熊野神社に避難した人の、上の写真と同じアングルでの映像→You Tube
写真6 旧 女川消防署の上部のステップのすぐ下まで水が来た痕がある。
映像4にこの様子が写っている。右上の建物は女川町立病院
写真7 鉄筋コンクリートの建物も根こそぎ倒れる
写真8 女川魚市場の桟橋からマリンパル女川を見る。
映像4では茶色のマリンパルの2つの建物の間を夥しい量の破壊された家屋などが海に吸い込まれていく。言葉が出ない
写真9 女川で一番大きかったスーパーマーケット
写真10 女川病院と熊野神社を見上げる。16メートルの敷地に立つ女川病院の1階天井から50センチ下まで水がきたという。赤い車は消防車、水をかぶり放置されたまま
写真11 病院から駅方向を見る。何もない
写真12 女川共同ビルが警察前の国道398号線を塞ぐ。なぜここに女川ビルがあるのかは下の写真13で理解できる。
写真13 女川湾に面して立っていた3階建て鉄筋コンクリート造の女川ビル(正式名称:女川共同ビル/1967年完成)は、矢印のように郵便局方向に流され1階部分が潰れている。左の部分はどこへ (写真クリックで拡大)
写真14 女川町役場屋上から第一波がかなり引いたところを撮影したという写真を見ると、写真13で不明だった女川共同ビルの左半分が、公民館まで押し流され衝突し止まったようにみえる (写真クリックで拡大)
写真15 上の写真とほぼ同じアングル。押し寄せた水が引いている途中。津波の高さと水流の凄まじさに言葉が出ない (写真クリックで拡大)
写真16 女川町役場では屋上でやっと難を逃れた。だが自治体の中枢機能は失われ、女川が不気味な程ニュースに出なかった。写真14・写真15はこの屋上から撮影された
写真17 役場よりも1階分ほど低い土地に立つ女川生涯教育センター。5階の機械室に逃げた人たちの腰の辺りまで浸水した
写真18 かつての女川駅のロゴ…サンマがいい味出してたなー
写真18 女川駅の駅名由来
【 感謝 】
●事実認定のために多くの方々のご協力をいただきました。その中にはまだご家族が行方不明の方もいらっしゃいます。改めまして深く感謝申し上げます。
●女川を離れ、今私が暮らしている川崎市の地域コミュニティには「孫子の代まで誇れる街づくり」というモットーがあります。津波や地震などに対してのこれからの街づくり、子ども・孫の時代にも受け継がれる危険回避の方法、そのハードとソフトのどちらも早く確立することが求められます。「明治から今回までのたった115年間に大きな津波に4度も襲われている事実を考えれば…」と文章の中に記しました。安全で快適な生活ができるためには、「伝えあう/つなぐ」コミュニケーションが欠かせないと思います。この記事を通して少しでもお役にたてることができましたら幸いです。
●これからも女川に温かい応援をよろしくお願いいたします。